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5代前のご先祖を尋ねての旅は明治時代の若者の情熱と行動力を今に伝えて下さいました! [私の旅日記]

20120406-1.jpg[カメラ]私からさかのぼる事5代前と言うと約110年以上前になりますが、祖父から聞いた大瀬熊三郎を尋ねる旅は今回が2回目の挑戦になります。

第1回目は20年程前に青森県を訪問し写真の大きな報恩と題された石碑を発見しました。

実際には直ぐにこの場所とは解りませんで、この場所に来た時に車のデジタルのメーター類が全て異常な表示を示し付近の東福寺の境内でついに走行不能になってしましました。

車の故障の原因はダイナモが故障した為電圧が低下したのが原因でしたが、不思議な事に車のデジタルのメーター類が全て異常な表示を示した場所が正に私が探していた旧小湊小学校だったのです。

20年前に来た時は100年も経つと小湊小学校も付近の別の場所に移転しており、今では図書館や歴史民俗資料館や福祉施設の立派な建物に変わって居るので100年前の情報しか知らない私には浦島太郎の物語を思い起こさせました。

今回の旅ではこの石碑を中心に聞き込み調査をしようと、石碑のある旧小湊小学校の敷地内にある歴史民俗資料館を訪ねました。

資料館の職員が気転を利かせて下さり、小湊小学校の元校長で現在は郷土史研究家の井筒氏に電話をして下さり、井筒元校長が昔の事を良くご存じで驚くべき展開になりました。

20120406-2.jpg[カメラ]私から遡ること5代前のご先祖である大瀬熊三郎が代官所の跡地に小湊小学校を建設しました、ここは昔は津軽藩と南部藩の境界に近い場所だった為に堀と土塁を巡らした堅牢な要塞の様な場所だったそうです。

井筒元校長が大瀬熊三郎のお墓があると教えて下さり墓所の管理をしている日光院の宮司の所に案内して下さいました。

日光院へ行くと宮司さんが大変喜びで驚きました、話を聞くと代々熊三郎のお墓を守って下さっており末裔が来るのを待って居たと言う。

20120406-3.jpg[カメラ]日光院の佐々木宮司さんは高橋是清の政策顧問を務めた日本の銀行家であり経済学者である佐々木多門の末裔で、宮司さんが見せて下さった大瀬熊三郎没後50年祭の写真で今から約60年の写真です。

宮司さんは私が最初に訪問した20年前は小湊の教育長をしており、役場を私が尋ねたが職員が当時の歴史を知らずに解らないと連絡先も聞かずに帰してしまい大変残念な思いをしたと言われました。

更に宮司さんは代々熊三郎の墓を守りながらいつか末裔が現れる事を信じて居たと言い、探している者同士がここで繋がりました。

20120406-4.jpg[カメラ]付近は2メートル近い残雪が残るお墓に案内して下さった日光院佐々木慶紀宮司さんと大瀬熊三郎の墓、祖父が没後このお墓の存在が解らなくなっていましたが佐々木家の宮司さんが代々大切に守って下さっておりました。

大瀬熊三郎は35歳の若さで没しましたが、この若さで学校を建て多くの町民や村民から愛された様で大きく報恩と書かれた巨大な石碑やお墓も多くの人々の寄付で建てられた事を知るとその偉業が偲ばれます。

20年前に来た時は碑の周りは古い石垣でしたが今では頑丈なコンクリートで固められ今でも小湊の人達が大切に管理して下さって居る事に感謝申し上げます。

佐々木宮司さんの家に伝わる話では熊三郎は歴史美術和歌に至るまでオールマイティーな能力を持つていたと伝えられ、また、天明の大飢饉の歴史を調べ遺骨を収集し慰霊碑を作るなどの活動もしていたそうです。

津軽藩の藩士だった大瀬家は弘前にある天台宗の報恩寺が菩提寺ですが、報恩寺に埋葬されず神道の日光院にお墓があると言う事は熊三郎が平内の人達に愛され、自らも骨をこの小湊に埋める事を望んだ思いが偲ばれます。

[ひらめき]墨田オンブズマンの空間放射線量計の値、0.148~0.142マイクロシーベルト(午後11時~午前0時)


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