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一夜に10万人の非戦闘員を米軍が大量殺戮した東京大空襲の事実を忘れてはなりません。 [大東亜戦争特集ぺリリュー島]

20110310-1.jpg[カメラ]昭和2年3月10日墨田区の石原二丁目の蔵前通りでは米軍のクラスター型焼夷弾による無差別爆撃で非戦闘員であった住民が猛火に包まれ逃げ場を失い焼死してしまいました。

20110310-2.jpg[カメラ]当事強い北風が吹いており、焼夷弾により木造の民家が次々に燃え火災旋風で焼死した子供を負ぶったお母さん、火災旋風による強風で子供が吹き飛ばされたと言う証言を裏付ける様に子供が母の背から飛ばされて焼死しています。

当事は情報統制が強く悲惨な状況の撮影が厳しく禁じられて居た為に、大量殺戮の悲惨さを写した写真は極めて少ないのが現実です。

大東亜戦争時代、東京が空襲される事を防ぐ為に、南洋諸島では日本の守備隊が激しい抵抗をしましたが、物量で迫る米軍には勝てず次々に玉砕してしまいました。

20110310-3.jpg[カメラ]南洋諸島のテニアン島では現在のジェット旅客機並の大きさのB29爆撃機約300機が写真の500キロのクラスター型焼夷弾を大量に積んで9日に離陸し東京へ向かいました。

9日午後11時頃には、千葉県の館山方面に到着しましたが、大量の戦闘機や高射砲を奪われ制空権を失ったわが国はB29爆撃機約300機が来ている事も正確に把握すら出来ませんでした。

攻撃目標の本所4丁目付近に達すると500キロのクラスター型焼夷弾を大量に投下しました。

この焼夷弾は上空で破裂し複数の六角形のペンシル状の子爆弾に別れ、地上に刺さると火の着いたゼリー状のガソリンが飛び散り木造の家屋を炎上させ様に作られました。

攻撃の方法も非戦闘員を大量に殺戮する為に逃げ道を塞ぐ様に円形に火の壁を作る様に行われま多様です。

当事を知る人達の話では、当事は情報が少なく300機ものB29爆撃機が襲来している事を知らずに居たのでこれ程の大惨事になるとは思わず、逃げ遅れた方が多かった様です。

各地で火災が発生すると突然強風が吹き始め体の小さな子供が飛ばされたり、大量の火の粉で歩いている人の服に火が着き出し出したと言う。

夜なので明るい場所は火災なので皆暗い方に逃げるのですが、中には明るい人が現れるのだそうです。

良く見ると明るい人は前身火達磨になって走り回る人だったそうです。

生き残った方にどうやって生き残れたのかを聞いてみますと、鉄筋の建物で鉄の扉のある学校に逃げて助かったそうです。

しかしながら、後から来る人達は体に火が付いていて中に入れてしまうと建物が燃えてしまうので鉄の扉を開く訳にはいかず、苦渋の選択の末扉を閉めたままにしたそうです。

翌朝、明るくなって見ると扉の外に人の背丈程の赤茶色の土の山があるので、それは何かとよく見ると焼け焦げた人の焼死体だったと言う。

戦没者のご冥福を祈らずには居られません。

当事の国際法でも非戦闘員への無差別攻撃は禁止されていた筈ですし、非戦闘員を大量に殺戮した行為は厳しく処罰されなければならない筈です。

東京裁判では、戦勝国の論理で裁かれわが国が一方的に悪者にされてしまいましたが、時間の経過と共に米国の戦争責任も追及される様になりましたが、まだまだと言う感じが致します。

今の若者に戦争の話をすると昔話か別世界の話だとして聞いて貰えませんが、戦争を忘れた時が一番危険なのではないでしょうか。


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