葛飾北斎生誕の地は何処に実在するのか?美術館建設ありきで捻じ曲げられる歴史の危険 [開館後毎年5億円の赤字!すみだ葛飾北斎美術館]
消えた葛飾北斎の道標は当時墨田区の教育委員会が立て、この写真は平成20年の6月に撮影されたものですから平成20年に撤去されたと言う事はこれ以降に、区民に知らせないまま撤去された事になります。
恐らく墨田区の教育委員会は飯島虚心の「北斎伝」に記載された事を参考に写真の道標を立てたものと思われます。
この道標には、「宝暦10年(1760)この本所南割下水の地に生まれ」と書かれて居るのですが、過去に私が「北斎伝」を読んだ記憶では「本所割下水」としか書かれて居なかったと思います。
当時は、北割下水と南割下水があり、北割下水は現在の春日通りになったと思われ、南割下水は現在の北斎通りにあった様です。
江戸時代の古地図にははっきりとこの二つの割下水が描かれておりますが、まっきり申し上げてこの地図の何処で生まれたのかは特定されて居ません。
また、飯島虚心の「北斎伝」だけを参考にすべきでは無く複数の文献から検証する必要があると思います。
それは、飯島虚心(1840-1901年)で葛飾北斎(1760-1849年)ですから、北斎が亡くなった時に虚心は9歳と言う事になります。
また、「北斎伝」が刊行されたのが1893年で、北斎が生まれたのが1760年と言う事は生誕から133年も経ってから刊行されたものですから生誕の地について正確かどうかわからないと言うのが現実ます。
現在でも歴史問題で近隣の国ともめて居ますが、戦後70年も経って居ないに突然領土問題が出て来たり、証拠が無いのに慰安婦問題が出て居る事を見ればわかりますが、後になって当時の人々の都合で書き換えられる恐れがあるのです。
この事は、特に都心にお住まいの皆さんがご先祖を5代遡ってはっきりと氏名を言える人が殆ど居ないと言う現実を考えればご理解いただけるのではないでしょうか。
墨田区の北斎美術館の問題も同じで、生誕の地についてもはっきりとした定説が無いまま、為政者の都合で生誕の地が勝手に決められ、それが数十年たってしまうといい加減であった事を忘れ検証する余地もなくなってしまいます。
先人は、大切な事を忘れない為に碑を作り後世に正しく伝える方法を作りましたし、菩提寺を守り続ける家ば墓石や過去帳から先祖を遡って調べる事が出来ます。
歴史を守り正しく後世に伝えると言う事は、現在の段階で正しく検証しておかないと時間が経つにつれて難かしくなってしまいます。
美術館を建設しようとするお役所の都合で歴史を捻じ曲げてしまう様な愚行は行ってはなりません。
歴史は繰り返しますから、過去を学ぶことは、未来を知ることに繋がります。
少なくとも行政が歴史を歪曲して正当化する事は愚行以外何物でもありません、いい加減な検証は後に矛盾となって表れ、自分の首を絞める事になります。
史実を正確に勉強していれば直ぐに矛盾に気付きますので、将来起こるであろう変化も見逃しませんし、将来を予想して事前に対策が立てられます。
墨田オンブズマンの空間放射線量計の値、0.140~0.137マイクロシーベルト(午後11時~午前0時)