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葛飾北斎生誕の地は本当に墨田区なのか?美術館建設ありきで歴史も変えられる危険! [開館後毎年5億円の赤字!すみだ葛飾北斎美術館]

20130608-3.jpg[カメラ]これはは飯島虚心の「北斎伝」が1893年に刊行され当時の本の写しですが、葛飾北斎の生誕の場を示す部分が記載されているのは赤の矢印部分です。

20130607-2.jpg[カメラ]この道標には、「宝暦10年(1760)この本所南割下水の地に生まれ」と書かれて居るのですが、飯島虚心の「北斎伝」には「本所割下水」としか書かれておらず、意図的に「南」の字を入れて「本所南割下水」と書き換えられた可能性がございます。

昨日のブログでも指摘しましたが、当時は、北割下水と南割下水があり、北割下水は現在の春日通りになったと思われ、南割下水は現在の北斎通りに当たります。

しかしながら、江戸時代の古地図で確認して見ますと、江戸時代の南割下水の辺りにはお屋敷が並ぶ今で言う高級住宅街ですから鏡師であった北斎の父の中島伊勢がこの様な場所に住んでいたのだろうか。

仮に北割下水なら小役人の住む地域でしたからその可能性がございます。

しかいし、この北斎伝の中には、「本所猿江」で生まれたとう言う説もある事を指摘しておりますので、猿江なら現在の江東区である可能性も考えられます。

虚心の北斎伝は、当時を知る人に取材をして聞いた言が書かれておりますので、北斎が割下水で生まれ、父は徳川家ご用達の鏡職人、母は吉良上野介の家臣小林平八郎の孫女であると北斎は言って居たと聞いた話で真相は不明です。

これを検証する為には、虚心の北斎伝以外の複数の図書の記載内容と比較して信憑性のある話を集めてあらゆる角度から検証する必要がございます。

公的な機関が、いい加減な情報収集でここが北斎の生誕の地だと安易に決めつけて良いのでしょうか、為政者の都合で歴史を勝手にすり替える様な事をしてはなりません。

[ひらめき]墨田オンブズマンの空間放射線量計の値、0.145~0.139マイクロシーベルト(午後11時~午前0時)


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