石油の一滴は血の一滴大東亜戦争末期にはゼロ戦の燃料は松の根のから取った油だった。 [大東亜戦争特集ぺリリュー島]
大東亜戦争末期には松の根から作られた油でゼロ戦が飛んだと言う話を子供の頃に聞かされ、当事は本当にそんなもので飛行機が飛ぶのかと半信半疑でしたが、当事この写真の釜で作られていた様です。
福島県の土湯温泉にある広徳寺の境内に松根油釜が現在も保存されているのを見つけました。
こうしたものはつい邪魔な物として捨てられがちですが、終戦から65年経過し戦争の悲惨が忘れ去られようとしていますが、終戦末期の日本国内の状況を今に伝える歴史の証人ではないでしょうか。
私にはこの釜は戦争の始まりと終わりを象徴しているように感じます。
当事の世界情勢を考えますと欧米列強は植民地支配から産業革命後の経済成長で次第に石油等の地下資源の確保へと向かい始めていました。
資源の無いわが国は工業化が進み加工貿易で成長していたので当然石油を輸入せざるを得ません、一方世界の市場を独占し暴利を貪っていた欧米は、日本の工業化が進むと市場を奪われると警戒します。
昭和16年になると8月1日アメリカの大統領フランクリン・ルーズベルトは日本を対象として石油の輸出を禁止し、日本への石油輸出は全面的に停止されました。
当事のアメリカの有識者は、日本への石油禁輸はアメリカを戦争に巻き込む事になるとルーズベルトに忠告しましたが、それを黙殺したルーズベルトは対日戦争を容認していた事が窺われます。
戦後の教育ではわが国が戦争を始めた様に教育されていますが、それは結果だけを取上げた間違った教育ではないでしょうか。
大東亜戦争は仕掛けられた戦争だったと言うのが真相ではないでしょうか。
人間誰でも、生活の糧を得られない状況に追い込まれますと活きる為に必死になるのは自然ですし、おとなしく死を待つ者ばかりではありません。
人間の底力は逆境で作られると言われますが、正に資源が無く物資も欠乏していたわが国が巨大な軍事大国を相手に徹底した戦いを行い日本の存在感を世界に示しました。
こうした事が高い技術水準を生み出し、それが戦後の高度成長や現在の繁栄の基礎になっている事を忘れてはなりません。
次に忘れてはならない事は、外交が下手である事を自覚すべきではないですし、相手の先手を打って外交による情報収集や要人との人脈の形成による話し合いと言う戦略が苦手だと言う事です。
私がこれからの日本において常に重要だと思う事は科学技術や工学の開発だと思います。
現在の技術は産業革命後から見ても革命と言えるほどの技術革新はコンピュータやインターネットと言えるかも知れませんが、エネルギー面から言えばまだ化石燃料に依存しています。
次の産業革命は脱化石燃料の開発が鍵になると思いますので、天才的な科学者の発掘や育成が重要でこうした技術革新が人の生活を向上させ平和に繋がるのではないでしょうか。