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本所松坂町公園の吉良上野介義央公像のお話し! [墨田区の名所・旧跡]

20131117-1.jpg[カメラ]墨田区の名所旧跡の中に本所松坂町公園がありこの中には吉良上野介義央公像がございます。

昔は年末になるとテレビ映画で忠臣蔵(ちゅうしんぐら)が放送された程人気があったのですが、ここ最近取り上げられなくなってしまったのは残念です。

忠臣蔵では吉良上野介義央公は浅野内匠頭が賄賂を支払わないので勅使(朝廷の使者)接待の儀礼を教えなかった事が切っ掛けで刃傷沙汰に発展したとされています。

これには諸説あるのですが、江戸時代に近松門左衛門が浄瑠璃「碁盤太平記」を書き、後に竹田出雲・三好松洛・並木千柳合作でかなり脚色が加えられ人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」が作られ大ヒットして歌舞伎等で上演される様になりました。

その理由には、仇討と言う庶民にはスカッとする興奮を与えると共に命を懸けて忠君を果たす武士の姿に感動したのかも知れません。

これにより5万3000石赤穂藩(あこうはん)はお家取り潰しとなり家来は路頭に迷う訳ですが、これにも関わらずに刃傷沙汰に発展した背景には余程の事があったと推測されます。

江戸地図を見ると当時の墨田区には吉良家のような旗本が相当住んで居た事が伺われます。

さて吉良上野介義央公像のお話しですが、本体はFRP(強化プラスチック)製で当時の記録では320万円かかりその費用は両国三丁目町会、吉良邸保存会、東京両国ライオンズクラブ等の寄付で作られました。

20131117-2.jpg[カメラ]この井戸は元禄十四年3月の討ち入りで吉良上野介公の首を洗った井戸を再現したものだそうです。

本所松坂町公園の敷地も昭和9年に地元町会の有志が土地を購入したそうですから、地元では吉良上野介公は当時から大変人気があった事が伺われます。

それにしても、墨田区には多くの武家屋敷があった歴史がありながらそれを再現したものが江戸東京博物館の模型ぐらいしか無いのは大変残念な事です。

北斎美術館を作る位なら、建設予定地には津軽藩の大名屋敷があった訳ですから武家屋敷の一部でも再現した方が国内外からの観光客が喜びますし、墨田区の歴史を知らしめる格好の舞台になるのではないでしょうか。

国際的には、葛飾北斎よりもサムライの方が知られて居ますし、イベントで大名行列を再現した方が面白いのではないでしょうか。

[ひらめき]墨田オンブズマンの空間放射線量計の値、0.149~0.143マイクロシーベルト(午後11時~午前0時)


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