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昭和19年の第五吾嬬小学校の写真からわかる当時の火災の消火体制! [墨田区の名所・旧跡]

20160327-1.jpg[カメラ]ご高齢の友人が古い写真を下さったのでご紹介いたします。

写真は昭和19年に隣接する工場の窓から撮影した第五吾嬬小学校で今では閉校してしまい八広地域プラザ吾嬬の里になっている場所です。

撮影された昭和19年の服装から考えて秋頃だと思われますが、まさに大東亜戦争の後半で丁度マリアナ沖海戦で日本は航空戦力の基軸である空母、大鳳、翔鶴を失い、完全に制空権を奪われていました。

この頃には本土空襲が予想され始めた頃で、空襲による火災を消化する為に皆が一列に並びバケツをリレーして火災を消化する訓練の最中だと思われます。

男達は戦争に駆り出され居る為に女性と子どもばからりである事が分かります。

建物も塀も木造の燃えやすいものであった事が伺われます。

バケツリレーは動力を使用するポンプ等が無い当時としては有効な消化方法だったのかも知れませんが火災が大きくなればとても間に合うものでは無かったと思われます。

この翌年の3月10日には東京大空襲で下町の大部分が焼失が焼失してしまう訳ですが、この辺りは空襲の被害は無かった様です。

古い写真から当時の人々の暮らしや様子が分かるので貴重な一枚だと思います。


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